13-06-18: 田舎教師と哲学書
明治生まれの小学校教師であった祖父の古い本棚に、西田幾多郎『善の研究』など戦前刊行された哲学書が何冊かあって、亡くなってから三十有余年経つ今でも、そのまま置かれている。
理科が専門であった祖父が、西田哲学に触れていたのはなぜなのだろう。自分自身の蒐書を考えれば、ときに大した理由なく本を求めることもあって当然なのに、亡くなった人のことゆえか、ずっと気になっている。生前に理由を聞くことは叶わなかった。
最近、文庫本で西田の随筆集を求めた。この本に収められている随筆は、雑誌などに掲載されたものなので、祖父は読んでいないとは思うのだが、祖父の気持ちが知りたいところから発して、西田の気持ちも知りたくなって、随筆へと手が伸びた。筋道を立てて説明することはできないが、ふだん読んでもなかなかわからない西田の哲学はともかく、随筆から何か人間の手触りのようなものを得たいと思ったのである。
西田の随筆を何篇か読んでみて、何か空気のようなものを感じた。それは、気のせいか、祖父の帯びていた空気にも通じるように感じた。でも、自分が祖父に接したのは、10歳のときが最後である。そのときに、幼い自分がそこまで祖父のことがわかっていたとは思えない。なつかしさともどかしさで少し息が詰まり、しかし、少し深呼吸をしてみて、むしろ、そういう距離のある感じが大切なんだと思い返す。
自分が研究者の端くれだからといって、このあたりの感覚を論理化しようとは思わない。世に溢れる、半端に理を立てて何でも「研究」にしてしまう言葉には日頃うんざりしているのに、その自分がさらにそうした言葉を重ねることは避けたい。にも関わらず、何も書かないでいることもできず、こんなふうにキーボードを叩いている。